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「自分を捨てる」ということ

こんにちは、atteyaaのマツイです。

「自分を捨てる」

今日のテーマ(タイトル)はこちらです。

私(私たち)は「強み」や「個性」を活かそう!
それを磨くことが成長だ!
みたいなことを日々発信してきました。
そして、きっとこれからもそうだと思います。

でも、だからこそ気づくことがあるのです。
自分らしくありたいという自我、
これが私であるという主義主張やポジション、
これらが成長のきっかけを阻害したり
チーム、組織、共同体の健全な調和
それを必要以上に達成困難なものとしているなと。

どういうことか
少し例を交えて見ていきたいと思います。

技術を向上させたいという「私」

例えばこんなこと経験ないですか?
もしくは見聞きしてませんか?
サッカーや野球、なんでも良いのでスポーツに取り組んでいるとして
やはり技術や自分らしい技を覚えたいと考える。
ボール(球技の場合は)をたくさん触って、
プロ選手の技を真似してみて、
で自分としては「うまくなっている!」と多少の実感がある。
でも、コーチには口うるさく
「下半身を鍛えるために走れ!」と言われる。
それが大事だと。
技術を伸ばしたい、上手くなりたい、
そういう思いの強い「私」は
コーチの教えを聞きはするものの
心には届いていない。
ありたい私がアドバイスを無意識に否決する。
そんな感じ。
そして数年後、
「ああ、コーチの言ってたこと、今分かるわ」
となる。

スポーツを例にしましたが
囲碁将棋や楽器演奏でも同じかもしれません。
社会人の方は仕事でも同じような経験が多々あるのではないでしょうか?

「ああ、あの時のアドバイス、そういうことか・・・」
みたいな。

その時リアルタイムに自分に取り込めていれば
どれほどに成長できただろうか?
どんな結果を享受できただろうか?

少なからず思い当たる節があるのではと思います。

ここまで書くと、ああ守破離的な話?
と思うかもしれませんが少し違います。

  • 最初は型を徹底的に学び(守)
  • 少しずつ独自性を出し(破)
  • 最後はその流派からも離れる(離)

守破離はざっくりいうとこんな感じでしょうか。
これも同様で分かっているようで
実はなかなかに実行できないと感じます。

守破離の守に至る姿勢、
それが「自分を捨てる」なのでは?
と思うのです。

何かに興味があって何かに興味がない「私」

個人的にはこんなこともありました。
谷崎潤一郎の「陰翳礼讃(いんえいらいさん)」という本を買いました。
とある領域を勉強していてその文脈でこの本が登場し無性に読みたくなったのです。
咄嗟にポチって、速攻でジャングル系の本屋から届きました。

谷崎潤一郎、大学時代によく読んだよな〜
なんて思いながら表紙を眺めていると
「ん?あれ?あれれ?」
となりました。

慌てて本棚(正確にはいらない本を入れているダンボール)を見に行くと
あったのです、古びていい感じに茶色くなった「陰翳礼讃」が。
そう、昔買っていたのです。
そしてどうやら私は読んでいないようです。
同時に勧めて下さった先輩の顔も想起されました。

「ああ、あの先輩はこういう視点で勧めてくれていたんだな」と
何だか切ないというか、とても深く染みました。

きっと、当時の私は買って読むふりをしたのだと思います。
こっちには興味があるけど、これには興味がない。
「私」というものはそれらの集合体だとも言えますが
そのスタンスは多くの機会を奪ったり、
その出会いを遅くしたりしているのかもしれません。

こっちに興味があるという私に
これ(陰翳礼讃)を勧めた意味、意図を深く考える。
そしてそこに興味を持つ。
こっちの私を捨てることができていれば
今の私はどんなだろうか?
そんなことを考えました。

組織やチームでの派閥の「私」

組織やチーム、
あらゆる共同体を運営する上で問題になるのが思想信条です。
その共同体を織りなす人々の性格とも言えるかもしれません。

それがある種の派閥やグループを形成します。

  • 何かを素早く劇的に変えたいと願う「革新派」
  • 何かをじっくり考え守りたいと祈る「保守派」

あらゆる組織、もっと言えば世界そのものが
日々この2つの摩擦や小競り合いに悩んでいます。

「私は革新派だ!」
「私は保守派だ!」

主義主張を唱えることはとても大事なことですが
一度それらを捨てて
「私はどちらでもない」とする。

中道とか、どちらでも良いとも違っていて
「どちらでもない」
「そういったものは捨てた」
という状態です。

この状態から共同体や世界を眺めればどうだろうか?

私は今過激なことを言ってはいるが
別の部分では何かを守る保守的な思考が働いているな。
あのときは保守的なポジションを取ったが
そうすることで社会の見え方が変わったな。

「私はどちらでもない」
とすることで、物の見方、認識が変わり、視座が上がる。
その可能性があるように思います。

「どちらでもない」
そんな人が増えれば
世界が健全な調和を体得する日も近づくのではないでしょうか。

私らしさというOS(オペレーティング・システム)

成人発達理論においては、自分らしさという元来的なものは
その人のOS的なものだと位置付けされています。
OSの上で様々なアプリケーション
(例えば、経験や出会いであり、一般教養としての教育であり、
様々なその他普遍的な能力や専門性など)を駆動させていく。
時間をかけてOSとアプリが相互に影響を与えながら「私」を醸成させていく。
それが人の発達方法の一つであると仮定すれば
OS(自分らしさ)にたくさんの経験(アプリ)をさせること
これが発達(成長)への近道だと言えないでしょうか。

「あの頃は若かったからな。」
「それも含めて自分だよね。」

振り返ればそういうことはたくさんあります。

でも、それは防ぐことのできない人の所業ではなく
「自分を捨てる」ことがうまくできていれば
たくさんの経験(アプリ)が「私」を刺激し、
逆説的に自分らしさを磨くことに繋がる。

結果、今の私から見えないものが見えていたのかもしれない。

私を早く成長させたいと思うのならば
「自分を捨てる」ことが肝要である。

若い方にはぜひぜひ意識していただきたいです。

読んでくれてありがとうございます。

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