不便であること
こんにちは、atteyaaのマツイです。
便利と不便について
今日はこんなことを無責任につらつら書いてみたいと思います。
で、キャリアのことにもちょっとだけかすってみたいと思います。
便利なものと不便なもの
「これめっちゃ便利ぃ〜!」
この経験は皆さん漏れなくありますよね。
語尾のイントネーションの上げ下げによっては
面白く伝わりすぎて便利さが薄れたり
まわりをイラッとさせたりしますので
意外と注意が必要だったりします。(余談)
「これめっちゃ不便やん!サイコーやん!」
一方でこの経験はどうでしょうか?
不便であることが心地よい、快適だとした(思った)こと
ありますか?
ありませんか?
普段はそこまで意識していないでしょうし
即答するのは難しいかもしれませんが
実は無意識の中で経験しているのではないかと思っています。
例えば、牛乳なんてどうでしょうか。
学校給食で漏れなく支給されている牛乳
今は紙パックが主流になっているようで
コンビニでも200mlや500mlの紙パック牛乳が棚を飾っています。
手軽に、ストローを差して飲めるし
飲み終わった後は紙パックだけがゴミとして残る
なかなかに便利です。
昔ながらの牛乳瓶はどうでしょうか?
ビニールを剥がして、
紙製のキャップをうまく剥がして
(モノによってはここで手こずることがあったりする)、
腰に手を当てて(ここは自由だが)、飲む。
ビニール、キャップ、瓶、
3つのゴミが発生するし、飲むまでの手間も多い(長い)、
そしてキャップを開けるときに指を牛乳に漬けるリスク、
これを常に抱えている。
そう、何だか不便なのだ。
でも、
「えっ、牛乳瓶の牛乳やん!サイコ〜!」
と腰に手を当て牛乳を飲む
そんな老若男女を想像するのは難くない。
もっと便利なものがある。
もっと便利であった方が良い。
その理屈で生み出されたものは確かに便利であるけれど、
便利と不便という二軸の評価であればというだけで
不便であったものより価値が高いわけでも
それらを凌駕するわけではないのだな、なんて思うのです。
牛乳瓶から。
不便であることが望ましい
別に昭和的なものを礼賛したいわけでも
懐古主義なわけでもありません。
この領域にもキャリアに繋がるヒントがあるのではないか?
と思うのです。
もう少し例を上げてみます。
海外旅行はどうでしょう。
皆さん、
・パッケージツアー派ですか?
・個人手配派ですか?
多くの人が「個人手配」を選ぶのではないかと思います。
実際に日本人が選ぶ海外旅行のタイプとしては
2:8の割合で個人手配が多いようです。
言われてみれば添乗員さんが旗を持ったツアーって
昔と比べると見る機会が減ったように思いますね。
パッケージツアーには移動手段も宿も、行き先も、
何もかもがコミコミでプランニングされていて楽、
すなわち便利なのに。
なぜか、多くの人が不便を選んでると言えます。
ハイキングや登山はどうでしょうか?
「どうぞ〜、こちらのロープウェイに乗って下さい。
頂上付近まで行けますから、だいぶショートカットできますよ!」
「えっ?そうなんですか!めっちゃ便利ぃ〜!
(語尾のイントネーション注意)じゃ乗りま〜す!!」
ってならないですよね。
こっちはハイキングに来とんねん!
ってことですよ。
牛乳瓶、海外旅行、ハイキング、
3つの例を書いてみたわけですけど
少しだけ見えてきた気がします。
不便である方が、
便利なものよりも体験的で、
実在的・実感的で、臨場感がある。
ちゃんと牛乳を飲んでいる気がして、
ちゃんと味わえている(気がする)。
ちゃんと海外という地を自ら渉猟し、
ちゃんと現地現物に触れている(気がする)。
ちゃんと山を歩き、自然を感じて、
ちゃんとその歩みを体験化できる(気がする)。
それぞれの不便には
こういったことが内包されていたわけです。
不便さが思い出させること
個人的な話になりますが、最近車を買い替えました。
最新式の輸入車から、
ここ20年くらいデザインも内部機構も大きく変わらない軽自動車へ。
これには何か深い考えがあったわけではないのですが
突如「日本の町の景色に似合う車に乗りたい!」って思考になって、
そうなると居ても立ってもいられなくなって、ソッコーで乗り換えたんです。
結果、驚くほど良かったことだらけでした。
一言で言うと、いろいろと思い出したんですよね。
私が車に乗り始めて20年以上が経ちます。
そこから車の電子化が進んで久しいんですけど、
いつからでしょうか、
車はどうやって動いているのか?
そんなことはまったく気にしなくなりました。
若い頃は車に興味があって、
今は生活の単なる道具となったから、年齢的なものなのかな?
とか思ってましたけど、そうじゃなかったみたいなのです。
車が過度に進化し、便利になったことで
車と私の距離が分かりづらくなった、計れなくなった、
先の言葉で言うと、体験的でなくなり、臨場感が減少したのです。
(便利)エンジンをかけるときは、スタートボタンを押す
(不便)エンジンを書けるときは、車のキーをキーシリンダーに差して回す
(便利)シフトレバーも電子化(ギアチェンジ感なし)
(不便)シフトレバーをしっかりと動かす
(便利)スムースな走りで道路の凹凸を軽減
(不便)ちゃんと地面の凹凸を拾ってしっかり揺れる
代表的なところで、こんな違いがあります。
この体験に立ち戻れたことで、
あらためてドライブ(運転)するってことを意識するようになりました。
今、俺は間違いなくエンジンをかけたぜ!
そしてこの車は3気筒だ、
だから、たぶんこんな感じで(頭でイメージ)ガソリンを燃やしてるはず、
がんばれ俺の「◯◯◯!」(私、愛車に名前を付けているんです。)
よし、そろそろあの道だ、あそこは悪路だからな、
車が弾まないようにスピードに注意だぜ!
心の声を文字にするとダサいし恥ずかしいんですけど、こんな感じです。
車を運転し、街をドライブする。
この一連の体験全てを自分の範疇として意識化し、制御(コントロール)している。
乗っている車のこと
走っている街のこと
すべてに思いを巡らして思考し、実感とする。
全てがそうだとは思いませんが、
不便さがもたらす益として
本質的なものを再興(再考)させる
ということがあるのだなと思うのです。
不便なキャリア
さて、キャリアです。
新卒就活活動や転職活動、
今は様々なサービスがある種の便利さを売りに展開されています。
自分のキャリアに悩める人たちにとっては
すぐに答えが出そうな便利なものは魅力的なのは間違いありません。
ここで必要なのは先ほどの事例かもしれません。
私はロープウェイに乗って山頂に早く到着したかったのか?
ハイキングを楽しみたかったのではなかったか?
手間や労力がかかる
すなわち不便なことの方が
味わい深かったり、
実在的で本質的で
それらを自分の意識化にすることができる。
まさにこれこそがキャリア(人生)に必要なことなのではないでしょうか?
(何とかキャリアの話に繋げることができました。)
ということで、何事も迷ったら不便な方を選びましょう。
(その目的にもよりますけどね!)
読んでくれてありがとうございます。