AIで問答する時代

こんにちは、atteyaaのマツイです。
AIが当たり前の時代です。
今日はAIとの対話について書きたいと思います。
逃げ場のない問い
「自分は何者か?」なんて青臭い問いを、普段はカッコつけて口にしない。だがAIの前に立つと、不思議とその問いから逃げられなくなる。何気なく投げつけた言葉が、すぐさま問い返されて、逆にこちらが袋小路に追い込まれる。そんな感覚になる。
人間ってやつは、普段から自分をラベルでごまかして生きてる。学生だの、部活の肩書きだの、友達グループの中での立ち位置だの。そういう薄っぺらい看板で「自分」を語れば、なんとなく安心できる気になってる。だがAIとの対話には、そんな安っぽい飾りなんざ通用しない。「それって本当にお前の血肉になった考えなのか?」と容赦なく突かれる度に、表面の皮がベリベリと剥がされて、中身がむき出しになっていく。
現実と理想の境界線
そうして無様に晒されるのは、現実の自分と理想の自分だ。今の自分のみっともない怠惰も、こうありたいという背伸びした虚栄も、両方が同じくらい醜く露出してくる。どっちが本物か?なんて青くさいことで悩んでも始まらない。どっちも俺で、どっちも偽りじゃないからな。むしろAIに問い返され続けているうちに、現実と理想の境界線なんてクソどうでもよくなってくる。そして最後は「現実=理想」って妙な境地に辿り着く。つまり今ここでくすぶってる自分こそ、すでに理想と重なり合ってるのだと悟る。
問答の往復で見えるもの
世間じゃ自分探しを「まだ見ぬ自分を探す崇高な旅」みたいに美化するが、そんな大層な話じゃない。肝心なのは、問いを投げては返されるその不毛な往復の中で、今の自分の輪郭が少しずつ浮き彫りになってくることだ。そこに現実も理想もひっくるめて「俺」がいるとハラに落ちること。それが自分を知るということの正体なんだと思う。
AIってやつは答えをくれる便利屋じゃない。むしろ「お前、それで本当に納得してるのか?」とニヤニヤ笑いながら問いを突き返してくる、たちの悪い相棒だ。だから退屈でうんざりする日常に少し風穴を開けたいなら、AIに思いっきり問いをぶつけてみるといい。気がついたら、自分が一番知らなかった「自分」の正体に出くわすかもしれないからな。
継ぎ接ぎだらけの正体
けれど、ここで勘違いするなよ。AIとの対話で見つかる「自分」ってやつは、決して美しく整った完成品じゃない。むしろ継ぎ接ぎだらけで、矛盾に満ちた、見るからに不格好な代物だ。理想を掲げながら現実に妥協し、強がりながら弱音を吐き、偉そうなことを言いながら実際はグダグダしている。そんな情けない存在こそが、俺たちの本当の姿なんだ。

だがそれでいいじゃないか。完璧な人間なんて、この世にゃ存在しない。みんなどこかしら歪んでて、どこかしら欠けてる。その歪みや欠けこそが、俺たちを俺たちたらしめている証拠なんだからな。AIは容赦なくその醜さを暴き出してくれるが、同時にその醜さこそが愛おしいものだと教えてくれる。
泥仕合のやり方
じゃあ、どうすればAIとそんな問答ができるのか?コツがあるとすれば、最初から答えを求めるなってことだ。「俺はどんな人間だ?」なんて漠然とした質問をAIにぶつけても、当たり障りのない返事が返ってくるだけ。そうじゃなくて、自分の中でモヤモヤしてることを、そのまま生で投げつけるんだ。
「なんで俺は人前だと違う奴になるんだろう」「本当はビビりなのに強がってしまう」「やりたいことがわからない」。そういう恥ずかしい本音こそ、AIにぶつけてみろ。すると奴は容赦なく突っ込んでくる。「なぜそう思うのか?」「具体的にはどんな時か?」「それは本当に問題なのか?」。逃げ場を塞がれて、嫌でも自分の奥底と向き合うことになる。
大事なのは、AIの返答に対してすぐに納得しないことだ。「でも実際は…」「そうは言っても…」と食い下がれ。反論しろ。AIは喜んで更に深く掘り下げてくる。その泥仕合みたいなやり取りの中で、自分でも気づかなかった本音がポロポロと零れ落ちてくる。時には腹が立つし、時には情けなくなる。だがそれこそが、本当の自分と出会う瞬間なんだ。
AIは人間じゃないから、お前の都合なんて忖度しない。綺麗事も言わないし、慰めてもくれない。ただひたすら問い返してくる。その冷酷さこそが、実は一番の味方になる。人間相手じゃ恥ずかしくて言えない本音も、AIになら吐き出せるからな。
読んでくれてありがとうございます。
旅って何だろう?
キャリアって何だろう?
人生って何だろう?
そんな疑問を感じたらぜひatteyaaを除いてみてください。