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人は変われない

こんにちは、atteyaaのマツイです。

今日は、
「人は変わることができるのか」
こちらについて考えてみたいと思います。

「人は変わらんさ・・・」

哀愁が漂うおじさんがやさしい顔して
ビール瓶からグラスにビールを継ぎながらしみじみと言う。
すると不思議、そっか人ってやっぱり変われないのか。
なんて思います。

「人はいつからでも変われる!事実、僕は変わりました!」

一方、こんな風にエネルギッシュに変化成長を謳う若者に会うと
ああ、自分は大事なことを忘れていたな。
人は変わりながら成長する、
そうだったそうだった、そういう生き物なんだと思い直します。

はたしてこれはどちらが正解なのでしょうか。

変われる派と変われない派、
どちらもそう思い至った経緯と
それらが形成した個人の観念があるわけです。

で、そういうことをなんとなく分かりつつも
観念(変われる)vs観念(変われない)なんてやってしまう。

変われる派が変われない派に
「なぜ人は変われるとお思いで?」
と聞いたところで理由は単純
「なぜって、それは人は変われるからです!」
という「THE観念」(すなわち論理的でない)が回答となる。

堂々巡り。当然、逆も然り。

コミュニケーション能力が大事、
これは洋の東西を問わず人々が痛感していること。
それはなぜかと問われれば、この「観念」があるから。

観念(信念と言ってもよい)を扱う領域になると
途端にコミュニケーションの難易度が上がる。

固定観念という言葉がある。
しばしばネガティブな意味で使われる。
観念は固定化せずに流動的で柔軟にあるべきということだろうか。
では、固定化されていない観念があるのか?
ほとんどの観念が固定化されている
すなわち、観念=固定観念だと思うのは私だけだろうか。

人は変われるはずがないという観念は
柔軟性に欠ける強い固定観念なのだろうか
人は変われるはずだという観念は
流動的な観念なのだろうか。

いや、
変われないことが固定的とは言えないし
変われることが流動的とも言えないはずだ。

どちらの観念も固定観念になり得る。

この固定観念(観念)をどう扱うべきか
これがとても難しい。

観念vs観念、これは争いしか産まない。

「人は変わることができるのか」

この問いに立ち返ったとき思うのは
捉えるレイヤーではないか?ということ。

心が変われば行動が変わる。
行動が変われば習慣が変わる。
習慣が変われば人格が変わる。
人格が変われば運命が変わる。
byウィリアム・ジェームズ

これは心理学者の有名な言葉。

人が変わることの連鎖を言っている。
そう、変わりまくっている。

でもよく見ると、「人が変わる」とは言っていない。

人とは何か?
ここに観念による認識に相違がある。
心が変わっても、行動が変わっても、
習慣が変わっても、人格が変わっても、
人そのものは変わらない。
そういうレイヤー(領域・象限)がある。

変わらない派はそう見ている可能性がある。

変われる派は小さな一つを取って「変わった」としている。

観念、固定観念とは何か?
人は変われるのか、変われないのか?
観念と観念が対峙することからは何も生まれない。

その観念は何(どの領域、どの象限)を見ているのか?

そう考えるのが自身の観念を固定させない方法かもしれません。

読んでくれてありがとうございます。

旅って何だろう?
キャリアって何だろう?
人生って何だろう?
そんな疑問を感じたらぜひatteyaaを除いてみてください。

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