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キャリアデザイン再考

こんにちは、atteyaaのマツイです。

最近、大学でキャリアについて話す機会がありまして
ちょっと考えたんです。

はたして学校は、キャリアを教えることができるのか?

今日はこんなことから始まって
キャリアデザインについての色々
そんなこんなを考えてみたいと思います。

キャリア(career)の定義

日本キャリア開発協会によると
キャリアとは以下のように定義されています。

環境との相互作用によって、
生涯を通じて個人が構築し、
個人により意味付けされたもの

日本キャリア開発協会

経験とその結果(影響)みたいなものを
人生を通じて考え、内省し続ける
そして、その時々の答えを紡いでいく

(私は)そんな意味だと理解しました。

大事だなと思うのは、
実はキャリアって「振り返り」、
過去の某への「意味付け」なのだということです。

もう一つ、キャリアという言葉の意味についても見てみたいと思います。

実は、キャリアの語源は馬車の車輪が作る「轍(わだち)」なのです。
つまるところ、車輪が通って出来た道という意味から生まれています。

過去を振り返ったときに見えるもの

キャリアとはそういうものだということが
キャリアの定義と語源からあらためて理解できるのではないでしょうか。

その理解の上で、
すばらしいキャリアを歩んでいるであろう人たち
その人達のキャリアについて考えたいと思います。

スポーツ選手のキャリア

野球の大谷翔平選手、少し前だとイチロー選手、
このお二人の小学校時代の作文はとても有名です。

このお二方は小学校の時点で
自分がどういうプロセスを経て
プロ野球選手になり、
その後の結果を残していくのか、
具体的に作文として書いていて(残していて)
そのとおりに実現していったのです。

まさに有言実行です。
私なんか子供の頃の夢すら覚えていません。
彼らのファンでなくても称賛に値しますよね。

では、これって彼らのキャリアなのでしょうか?
小さい頃に夢を具体的に思い描き、
そのためのマイルストーンを設定し
着実にそれを掴み取って、実現していった様。
これが彼らのキャリアなのでしょうか?

キャリアの定義と語源という意味で照らしてみると
実はそうではないと思うのです。

立派な夢であり、
それを実現するためのマイルストーンであり、
事実としてそれを実現したのです。

でも、それは経歴や実績であって
決してキャリアではないのです。
(※キャリアを経歴として訳すこともありますが、
今回は辞書的な意味ではなく本来的意味に言及しています。)

再掲します。

(キャリアの定義)
環境との相互作用によって、
生涯を通じて個人が構築し、
個人により意味付けされたもの

「個人により意味づけされたもの」

これがとても重要で、意義があるのです。

自信の経歴を彼ら自身がどう感じ、
どう意味付けしているのか、
これがキャリアなのです。

大谷翔平選手であれば
数年後に投打の二刀流について振り返って
自分なりの理解と解釈をするはずです。

親のおかげ、
監督のおかげ、
あのときの失敗や自分自身の心持ちの変化の賜物、
きっと私たちにはわかりません。
でもだからこそ、彼のキャリアなのです。

実際に素晴らしい成績を残したにも関わらず
晩年や引退後に人生の道を踏み外すプロスポーツ選手がいます。
彼らは一様に「輝かしいキャリアが一転」なんて言われますが
そうではなく、「良いキャリアではなかった」
これに尽きるのではないでしょうか。

自らがその体験、経験を意味づけすること

これがキャリアだとするならば
実はキャリアデザインという教育は
残念ながら矛盾と向き合っていることになります。

過去を振り返り、
それをどう意味づけするか、
これってどう教えるのでしょう?

文科省は画一的な教育は得意ですが
いよいよ苦手な分野にも進出するということなのでしょうか?

もう一つのキャリア

ここで、もう一つのキャリアについて触れたいと思います。
careerでなく、carrierです。

carrierはcarry(運ぶ)から派生した言葉で、
運ぶ人というような意味があります。
通信キャリアなんていう表現がしっくりきますね。

似て非なる言葉なのですが
キャリアデザインという教育においては
「なりたい自分をデザインし、そこへ自分を運ぶための手段」
というように、ありたい未来へ自分を運ぶ(carrier)というように
意味が曲解されているのではないか?なんて思ったりします。

はるか先の未来を見据えて、雄弁と夢を語り、
そこに至るまでのステップを考え、
挑戦的かつ実現可能なマイルストーンを設定する。

そんなことができる人って一握りなわけです。

でも、キャリアデザインというと
なぜかそういうことをしないとダメ
そんな間違った解釈が少なからず伝播している気がするのです。

漫画の例

宇宙兄弟の六太(ムッタ)のキャリアは
宇宙飛行士になること(なったこと)ではありません。
弟や仲間との関係性の中で弱い自分に気づき、かっこ悪い自分を知り、
それとの葛藤の中で宇宙飛行士になるための
動機や意味・意義を見つけたことなのです。
(知らんけど、筆者の予想含む)

ワンピースのルフィのキャリアは
海賊王になること(なったこと?)や
カイドウに勝った(?)ことではありません。
小さい頃に海賊に命を救われ、
そこから多くの仲間に出会い、助けられ、
それと同時に多くの仲間を助けたこと。
そこから得た「何か」についてルフィ自身が後々考えることなのです。
(知らんけど)

宇宙飛行士も海賊王も、夢であり目標ですが
それ自身とそのプロセスがキャリアではありません。

振り返って、六太やルフィがどう考えるのか?それがキャリアなのです。

そう考えると、漫画の主人公は「よいキャリア」を歩んでいるのだと思います。
私たちは彼らが内省し、逡巡し、迷い見失うところを見ているわけです。
そんな葛藤を経て、自分自身と過去の自分、
そしてそれらがもたらした結果に対しての認識をアップデートし
自身のキャリアに意義を持たせている。
そんな主人公や漫画のストーリーそのものに我々は共感しているわけです。
漫画ってほとんどがそんな感じで構成されていますよね?

私たちは漫画を読みながら、主人公たちのキャリアを見ている。
夢や目標を実現する過程を見ているように思いがちですが
起こった事象を主人公たちが
どう捉えて、
どう変容(成長)し、
どう意味づけしていくのか、
そんなことを見ているのです。
だからこそ面白いのだと思います。

大事なこと

そう考えるとキャリアデザインを学校教育で実施することにはやや限界を感じます。
キャリアは学習するもので、教えることはできないからです。
「学習」と「教育」は常に対の関係ではないのです。

異論があるかもしれませんが
根本的に、
学習は学ぶ側が主体であり
教育は教える側が主体です。

キャリアの定義を考えれば分かりますよね。

キャリアは学べますが、教えることはできません。

教育の現場でキャリアを学んでもらうには

  • 多くの経験を積んでもらう機会を提供すること
  • その振り返りを促すこと

これを繰り返すしかないように思います。
更に言えば、学生は学校という枠の中では教わるモード(教育)になっています。
学校という場を離れて広く社会を知るために
自らの学びのスイッチを入れてもらうのが涵養ではないでしょうか。

そんな場を作っていきたいな〜なんて思っています。
若者のキャリア、これを考えればそれって早い方がいいと思うんですよね。

読んでくれてありがとうございます。

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